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蓄音とカメラとテレビのオマケなる
糸電話だけが ぼくらをつなぐ
かれこれもう十数年、ずっとdocomoを使ってきましたが、
このたび、相方および相方の実家のau勢力に取り込まれることになりました。
いわゆる家族割とかその辺の関係ですよ。
ワタクシの実家はdocomo派なので、
まあ、この件に関しては、ワタクシがヨメに行ったというか、なんというか。
しかし、すごいね、機能が。
今まで使っていた携帯を買った数年前でさえ、
カタログを見せてくれたお店の人に、
「僕がほしいのはカメラじゃなくて、電話なんです」
と言ってしまった記憶があるのに、
今回に関しては、もう、どうイヤミを言ったら良いものか。
まあ、言う必要もないのですけど。
でも面白いよ。
音楽入れて、FMトランスミッターでカーステレオに飛ばせば、
CDなんかと違って、デコボコ道でも音とびの心配ないですし、
我が家にはテレビがありません!と公言しつつ(これホントの話です)、
こっそりワンセグ見たり。
で、いきなり電話とかメールが入ったりすると、
ええと、どうやって電話にでるんだっけ、どうやってメール見るんだっけ、
てな塩梅。
本末転倒も悪くはありませんよ。
ほんと、実に悪くない、
楽しんでます。
黒き月に隠さる定めの陽のもとに
すべて世界は調和してゐる
すこし遅れましたが、日蝕の話題です。
前回の記事で、「消えてしまっていたら・・・」みたいなことを書いてしまい
一部の方々には、大変なご心配をお掛け致しましたが、
消えてしまったのは、太陽の方でした。
皆既、ではありませんでしたが、
上高地では見えました。部分蝕。
使ったのは、
プラスチック板にマジックで色を塗り重ねただけの不十分な道具でしたが、
いい具合に薄雲がかかり、
道具なしでも見える時もあるくらいの、最高の日蝕日和でした。
太陽が雲で隠されたのとはまた違う
なんとも言いようのない、不思議な薄暗さでした。
全ての物が、息を止めているかのようでした。
※
冒頭の歌は、完全オリジナルではありません。
英国のロックバンド、ピンクフロイドの伝説的アルバム
「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」のフィナーレの1曲、
「エクリプス」の、最後の1節をモチーフにしました。
ていうか、ほとんど翻訳しただけ。
短歌や俳句のような短詩の形式がなくても
そのたましいさえあれば
ほんの短い一節に
全てを凝縮し、ナイフのように磨きあげ、一瞬で人を屠ることができる、
そんな詩が書ける。
言葉のチカラというものを感じる一節です。
さて
短歌という形式は、ともあれ備わる竹光に
月の光を反射させ
近藤勇か土方か、空しく一人剣の舞
気づけば月は山の陰
酔いも醒めたる心地して
書き散らしたる言の葉の
無粋に赤面せぬ前に
更新ボタン押しちゃえ。
鉄 鉛 錆 泥 芥 吾が心
澱み清めし あらし吹き過ぐ
橋の上から濁流を見て
この水の中には何が混じっているんだろうと思いました。
濁流といっても
前回の嵐の時よりも、泥色ぐあいの少ない
いや
濁流といってしまうのも可哀想なぐらいの水色なのですが。
でも
数日前の雨のときは、たしかにドロドロ色だったのです。
きっとこの嵐は、洗い流しているんだ。
そう思いました。
前回は洗い、今回はすすぎ。
この嵐で
汚いもの、重く澱んでいるものがすべて清められるとしたならば
嵐が過ぎ去った後には、
ワタクシという存在のうち、一体何%が残ることになるのでしょう。
梅雨明け
ボクの存在が消えてしまっていたとしたら
ごめんなさい。
二人密かに 居る雲のうへ
来月延期ができること。
・・・だって、旧暦があるじゃん。
信州では、旧暦でやるのがスタンダード。
そっちの方が天気がいいしね。
今日はふたりきり、そっとしておいてあげる日。
だから雲も湧き、雨も降る。
本日は、人は天など見上げずに、
足もとのカエルたちと、宴でも張って居ればよいのです。
前回の「落書き」記事に対して、ちゃーさん(どこかの秘密基地)より
コメントをいただきました。
ちゃーさんは、サグラダファミリアにある落書きを見られたことがあるそうで。
ワタクシとしては、あんな偉大な場所に落書きがあるなんて、
考えもしなかったものですから、
かなり驚いて、いろいろと調べてみました。
すると
あるわあるわ。
出てきた画像を見て、しばらく考え込んでしまいました。
そんなわけで、以下、私見をつらつらと。
※
そもそも人はなぜ落書きをするのか。
ニンゲンには自己顕示欲というものがありますが
その発露であろうというのは、想像がつきます。
この自己顕示欲というものは、
おそらく人の本能に属するものだろうと思います。
ニンゲンは、この本能に、理性というイチジクの葉一枚を貼り付けて
生活しているわけです。
このイチジクの葉は、教育の程度(学歴という意味でなく)によって
ぴったり貼りついたり、落ちやすくなったりします。
旅に出たりして、はしゃいだりすると、
通常よりさらに落ちやすくなることでしょう。
いずれにせよ、落書きはニンゲンの本能ではあるのです。
※
もうひとつ
さきの記事で書いた、ローマ兵や侍の記名。
それと、有名観光地の落書き。
どこがどうちがうのでしょうか。
思うに
ローマ兵や侍の記名行為は
彼らの行いに対する報酬と考えてもいいのではないかと。
あの時代に、あの旅路を踏破した、そしてたどり着いた。
だから彼らには名を残す権利があったということ。
アポロの飛行士たちが、月面に立てた星条旗。
個人的にアメリカという国家は好きではありませんが、
あの月旅行を通じて、アメリカが払った労力、犠牲、人類に果たした貢献、
それを考えると、あの場所に翻るべきは、やはり星条旗以外にありえません。
それに対して
サグラダファミリアの落書き
まず、その場所が守られるべきものであるという
「共通の認識」(常識という言葉は嫌いだが、まあそういうこと)が
欠けているのは間違いありません。
神社仏閣に三社札を貼り付ける行為は、
その建物と、背後にいる神仏を敬って行うものですが、
あれら落書きには、敬意のカケラも見られません。
あるのは、むき出しの自己顕示欲のみ。
次に、隙間なく夥しい落書きがある点
「みんなで渡れば怖くない」
これ以上の思想を、そこに見出すことができません。
イチジクの葉が落ちているのにも気づかず、
たとえ気づいていても、「周りのみんなもスッポンポンだけど、何か?」
ニンゲン、時にイチジクの葉を投げ捨てることも必要だとは思いますが、
どうせやるなら、自分の考えで、自分の行為として、自分の責任で、
堂々とフルヌード。
これが正しい脱ぎ方というものではないでしょうか。
いかん
論法が重力の法則従って、「下」に向かいだした。
ちゃーさんに怒られないうちに、このへんで。
※
余談
あぶらた小路の落書き
あの場所は、落書きが許される場所だとは思いません。
だけど
そんな場所で見つけた落書きの文言に
心を動かされることもあります。
だから世の中は、まあまあ面白いのです。