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RICOH CAPLIO GX100
結局オークションでは落とせず。
だけどいろいろと丹念にネット上を探し回ってみたら、なんとか買える価格で見つけました。
とはいえ当初R8を検討していたことを考えると、1万数千円の大幅予算オーバー。
飛び降りてみたらそこは清水の舞台なんかでなく、東京タワーだったことに気づいたワタクシなのでありました。
でもね、モノ買って、こんなにワクワクしたのは久しぶりでしたよ。
品物が届くまで、本当に気が気ではないのですね。
こんなのは自分が初めてクルマ(中古のスターレットGT)を買った時以来かなぁ。
勤務中ではありましたが、口実を作って早速ためし撮りをば。
こんなんとか
こんなんとか
いずれも本日ご宿泊の修学旅行の生徒さん用のお食事です。
しっかし
自分の修旅の時はこんなに豪華だったか?
ちなみに上記の画像は、なにもいじらず、オートモードで取ったやつです。
それでこんなにきれいに取れるんだったら、細かい設定する必要ないな…。
でもそれじゃあ本末転倒なので、下手の横好きでいじり倒しますですよ、当然。
赤く染まる雲は、山の陰に沈んだ太陽からの伝言を伝えてくれている。また明日、と
空はだんだんと藍が濃くなっていって、最後の一点で宇宙の色になっている
その下で紫陽花の色が、深くなっていく闇に抗っている
空を横切る電線は、何を伝えているのか
電柱のてっぺんにある月が、電信を検閲している夕べ
思うことも言えない心が
扇風機の風に散らされてゆく
先日、上高地用にノートPCを購入しました。
Dellの通販で買ったので、まだ手元に届いてないけれど。
届いたら、もう少し密にブログ更新できるようになるかな?
お値段は基本のシステムにあーだこーだつけても70000円くらい。
安い。(同クラスパソコン比)
でも高い。(くえびこ財力比)
最後のボタンを押す時に、清水の舞台から飛び降りる・・・っていうか、どうしようどうしようと舞台の端をうろうろしているうちに誤って足を踏み外したような、そんな心持ちがいたしました。
でもこれでおわりではなく。
次はデジカメ。
もうほとんどRicohR8に心が決まりかけていたところ、先日お客様が持っていらした同じRicohのGX100を手にして、思いっきり一目惚れ。
婚姻届を出しに役場に行ったら、役場の受付のお姉さんに一目惚れしてしまったようなものでしょうか。ちがうか。
さすがに新品じゃ無理な価格なので、ただいまオークションに挑戦中。
うまく落とせればいいな。
今までの相棒のFinePixS304のことを、名器だと思ってほれ込んで使っていたので、後釜を探すのが大変なのですね。でもGX100ならば、後釜として不足はぜんぜんありませんもの。だから絶対ほしい。強盗してでもほしい、というのは言いすぎか。
・・・あ、「名器」じゃなくて「名機」の間違えでした。
我ながらえっちだ。
周囲の喧騒、というほどでもありませんが、BGMやらなにやらの雑音の中に、なにかひとつのパターンを持った人間の声があることに気付きました。
いらっしゃいませーーーーーーーー。
せでトーンを上げて、そのあとたっぷり4拍分は伸ばしていると思われる「いらっしゃいませ」。
声の主の彼女は品だしをしながら、独り言のようにこれを繰り返しているのです。
初めて聞いたタイプの「いらっしゃいませ」です。
おそらくその店舗では、店長、もしくはスーパーバイザー(ひいては経営側)の方針で、周りにお客様がいる時は「いらっしゃいませ」を繰り返すような指導がなされているのでしょう。
彼女としてはその指導方針を、「ばかばかしい、いらっしゃいませなんて、お客様が入ってきた時に言えばいいことなのに」ぐらいに思っていて、だけど業務命令なのでまじめに遂行している、その心理的な落差のところのつじつまを合わせようとする無意識の調整の結果、それが異様に長い語尾という形で表出してしまっているのではなかろうかと、ワタクシとしては何の根拠もない憶測を試みてみたりするわけです。
でも聴いていると単純に面白いのです。
もしかしたらこれは単なる気のない「いらっしゃいませ」よりもよほど良いのではないか、彼女の抑圧されたホスピタリティはエンターテインメント性という形で昇華したのではないか、ワタクシはそんな稀有な例に遭遇したことを喜ぶべきではないか。
うっかりそんなことを思い込むところでしたが、5分も聞いていると飽きてきて耳障りになってきました。
やっぱりさ、「いらっしゃいませ」はお客様の目を見てさ、にっこり笑って言ってこそお客様も気分いいし、自分も義務感とか関係なくいられるので疲れないし、傍からみてても絵になるよ。
そんなことを思った休日でございました。
遠くまで見ること諦めた理由は
霞んだ空の所為ではないはず
散歩の途中で出会った若猿の目は透き通っていて、その目で一体何を見ていたのだろうと思った。
次に移るべき枝か、仲間の動向か、はたまた別の幹に虫でも見つけたか。
時に零下20度になる上高地の冬は厳しい。
そしてここで冬を越す彼ら猿たちにとって、この季節にどれだけ食物を食べ、体力をつけておけるかということは死活問題だ。死活問題なんていう言葉も生ぬるい、文字通り生き死にの問題なのだ。
でも彼は空を見ていた。きっと。一瞬だけど、食べ物のことを考えるのを忘れていた。
そんな一瞬も、歳を経るごとに減ってゆく。
空を見るよりも、その手前に見える枝や幹が与えてくれる、食物情報の収集が上手になってゆくのだ。きっと。
だから生き残れる。そして生き残るのは生き物としての義務だ。
だから、いい歳して空ばかり見ていてはダメなのだな。
そんなことを思った。
空を見ながら。