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1020時。
岩魚留小屋。
大きな木の下に隠れるように粗末な小屋がありますが、粗末といえど旅人にとっては大事な中継点です。
樹木の大きさと建築物の大きさの比に、自然のものと人工のものの理想的な存在比を見たような気がしました。
河原というものが存在しない狭い峡谷なので、ところどころ右の画像のような桟道も設けられています。
ただ、あの緑色の部分・・・
拡大するとこんな感じ。
おいおい、こんな美しいコケを踏みにじって行けと申されるか。そいつぁできねえ相談てもんじゃあござんせんか?
よく見ると多くの人々もこの桟道を通るに忍びなかったのでしょう、山側に踏み跡ができていましたので、ワタクシもそちらを利用させていただくことに。
次に現れた桟道は、コケがついていませんでしたが・・・いませんでしたが・・・・
おいおい、半分宙に浮いてますぜ、旦那。
まあ、桟道たるもの、半分宙に浮いていてこそ桟道なわけなのですが、こう材木が朽ちてぼろぼろになっていちゃあ、あんまりいい気がしませんな。
やはりここも山側の細い踏み跡を辿るわけなのですが、このような桟道や狭い場所をいくつか越えているうちに、気づきたくなかった事実に気づいてしまったのでした。
・・・右手の親指付け根が異常に腫れてる・・・
この事実に気づいたのは、岩魚留小屋を過ぎて、沢の右岸沿いの道を歩いているときでした。
崩れている場所を通り抜けるとき、右手を壁のホールドにあてがった際に激痛が走ったのでした。
おまけにこのあたりから先、崩れている場所続出。
ヤバイ場所にはフィックスロープが張ってあるのですが、もうそのころには進行方向右手にあるこれらのロープや岩の手がかりなどを使うことができないほど、手が痛み出してきていたのです。
ロープを使わずリスクを冒すか、痛みをこらえてロープをつかむか、無理な体勢で左手でロープを使って通過するか・・・、崩壊地点が現れるたびに煩悶し、結局えいやっと、選択肢その1でクリアしていくわけです。
さて。
崩壊地点が現れるたびに・・・、と書きました。
たしか岩魚留小屋から先は、清流のお散歩道という認識をしていたはずなのに、こんなにたびたび崩壊場所が現れるなんて・・・。
そりゃあ、たしかに豪雨で崩れた場所があるという情報は承知していましたよ。
だけどそういうところは「多少」だったはずでしょ・・・?
でも「多少」って、こんなのもタショーのうちに入るんですかぁ?(涙声)
いや、取り乱してしまった。
よく見れば河原に降りるために工事用の仮設階段が設置してあるではないですか。
ああよかった。
登り?
ああ、あの矢印の書いてあるほうに入っていってですね・・・
・・・よじ登れってことか。
それに河原に降りるのはいいけれど、これって大雨のときなんかは・・・。
いやいや、今日は晴れている。水かさも少ない。その事実が大事だ。つまらぬ心配などするものではない。
この先こそは道は平穏になる。手を使わないでもいい道になる。明るい未来はイメージをすることで現実になるのだ。
そうだ、その調子だ。
イメージどおりに穏やかな道が現れたではないか。
こんな穏やかな道がこの先もずっと続くことをイメージし続ければOKだ。
将来の自分をイメージすることこそ成功の秘訣なのだと、どの自己啓発本にも書いてあるではないか。
あれら崇高な自己啓発書物を信じて、世界中の人類がみんなで成功をイメージすれば 、世界人口60億、総・勝ち組セレブ億万長者になれるはずなのだ。
イメージは貧困を救う。イメージは平和をもたらす。イメージは世界を救う。
イメージ万歳。万々歳!
こんな崩壊地だってイメージさえあれば、イメージさえあれば・・・あれば・・・。
・・・でもね、この崩壊地を穏やかな道っていうイメージのままで歩くと危ないよ、実際。
どこに道がついているか、分かりますか?
手を使わないで通過することができそうな感じがしますか?
痛む右手で木の根をつかむとき、涙が出てきましたよ。
以降も難所は尽きることなく続きますが、しばらくしてようやく広い河原に降りることができました。
そこでは架橋工事の真っ最中。
巨大で無骨な黄色い重機も懐かしく目に映り、ディーゼルの排気ガスのにおいも甘く鼻腔を刺激します。
こんな重機が入ってこれる場所まで降りてきたんだ、ということは、あとはこの重機も通れるほどの道を下っていけばいいわけだな、と喜ぶワタクシは、視界の端に見たくないものを見つけてしまいました。
太いロープで作った巾着袋状のネットに包まれた資材・・・。
冷静に周囲を見渡してみれば、重機が通れるような道は、そういえば見当たりません。
つまりこの重機は・・・・。
ヘリで運ばれてきたのだ!
ネット巾着袋は、資材をヘリにつるすために使うもの。
きっと重機も部品ごとに分けられて、この場で組み立てられたものなのでしょう・・・。
さて我が進むべき道は、対岸の絶壁によじ登るように作られた梯子。
もう一度急斜面の中腹まで登り返さなくてはなりません。
それでも地図で現在位置を確認すると、林道まではあと少し。
このあたりに、古びた石碑がありました。
戦国時代、飛騨の三木氏の城が落城した際、脱出した奥方がこの地で殺害された故事を詠んだ、折口信夫の歌碑でした。
殺された奥方はどんな人だったのだろう、凶刃は彼女の背中に突き立ったのだろうか、胸に突き立ったのだろうか・・・。
林道合流点「二股」到着、ぴたり1200時。
あとはゆるゆる林道をくだること1時間30分。
島々集落にたどり着きました。
さて、温泉。
波田町営「竜島温泉 せせらぎの湯」は、下山口の島々集落より、梓川を挟んで対岸に見えているのですが、実際には遠くの橋を渡ってはるばる30分かけなければたどり着けないのがいやらしい施設です。
ひとっ風呂浴びて生き返ったワタクシは、呼んでおいた「相方タクシー」で一路松本へ・・・、のはずが、安曇野方面へのりんご買出しその他のお買い物ツアーに連れて行かれてしまったのでした。
下山口の島々集落の酒屋は品揃えが豊富でした。
信州の地酒・地ワインが多数そろっております。
思わず衝動買い。
その晩は、食卓がゴージャスな雰囲気になりました。
画面はじっこに見えているハッポー酒のことは内緒ね。
それにしても・・・・
今になって思うのですが、もうちょっとマジメに情報収集しておけば、あの道が数年前に大豪雨災害に遭って、道の復旧がままならぬことなど事前につかんでおけたはずなのに・・・。
全く油断していました。
で、手はどうしたかって?
んー、腫れは2・3日で引いたものの、いまだにおさえると少し痛むし、違和感もある。
もしかしたら骨にヒビくらい入ったかな?
・・・ん?病院?
まあ、死にはしないでしょ、ははは。(←大の医者ぎらい)
そんなわけで、最後は大反省の山旅だったのでした。
しかも上高地側と比べると、反対側は突然道の状態がワイルドになってくるのです。
この徳本峠へは、上高地側から入ってまた上高地側へ戻る人が多いため、道の踏まれ方や整備状態に反対側と差があるのは当然の話です。
ちなみに峠まで、上高地から入ると標準3時間弱(河童橋起点)、反対の島々集落から入ると6時間近くかかります。
それでもワイルドとはいえ、それはあくまで「比較的」の話で、時折道が崩れかけて幅が著しく狭くなっているところもあるのですが、充分に周囲の森の景色を眺めながら下る余裕のある程度です。
話に聞いていた、豪雨で崩れているというのはこのことなのかな?と、やや崩れかけて道幅の狭くなった道を歩きつつ、それでも大したことないので、いつものとおり口を開けて景色を眺めながら下っていましたが、やはり油断はいけません。やってしまいました、尻餅。
尻はともかく、とっさにバランスをとろうと突いた手を、硬い岩の角に強打。
しばし悶絶。
気を取り直して立ち上がり、又下りだしますが、どうにも手が痛い。右手の親指の付け根のあたりが。
ただ、周囲の美景に励まされているうちに、痛みも薄らいだような忘れかけたような、そんな気さえしてくるのでした。
森に日が差し込むと、地を覆う笹がプラチナのように輝きます。
黄金と白金でできた古代の宮殿を発見したトレジャーハンターよろしく、得意満面の笑みでなおも下ってゆきます。手の痛さはこの時点でもう気にならない程度にまで回復。
やがて行く手からは、流れる水の音が聞こえ出しました。もうすぐ沢筋に降りるのです。
九十九折の急坂下りからはこれで解放されます。あとは清流沿いの穏やかな散歩道を残すのみ。
沢筋まで下ると、思っていたとおりの清流と穏やかな下り道です。
この先の平穏と安寧を約束してくれるかのような美しい風景に、ここまでの疲れも、強打した手の痛みも、すっかり癒されていました。
上の画像は「岩魚留の滝」。
さすがに下流の魚はここより上流には登っていけないようです。
つまりここから先は「下界」ということになるのかな?
やっと下界まで無事に降りてこられました。
この先しばらくあるのですが、ここまで来てしまえばもう安心ということでしょうか。
次回、安心な道を下るレポ。
剋目して待て。
梓川沿いの道を上流へと向かいます。
深い谷間の上高地はまだ影の底に沈んでいますが、一足早く朝日を浴びて目覚めた明神岳が、待ちかねたようにさっと紅く色づいてゆきます。低血圧のワタクシにとってはうらやましい寝起きの良さです。
0625時、徳本峠への分岐に到着。
現在上高地へ行くには、梓川を忠実に上流へとたどるR158および県道上高地公園線が唯一のルートとなっています。ただこの「唯一」というのは、あくまで自動車を使った場合の話。
徒歩でなら、上高地を取り巻く山々にいくつものルートが開けています。
もっとも全て「登山道」レベルの道ではありますが。
その中で古来より上高地への往来に使われていたのが、今回辿る「徳本(とくごう)峠越え」。
江戸時代には、松本藩の手による伐採事業に携わる杣人(そまびと・・・きこりのこと)たちで賑わっていたと言われる上高地への重要なルートであり、又、いつの時代かは分かりませんが、上高地経由で飛騨に抜ける街道が存在した時期もあったと言われているだけに、きこりたちだけではなく商人たちも多く行き交ったに違いないこの峠道なのです。
そんな古道をたどるわけなのですから、行く手によく踏まれた快適な峠道を想像して、気分も浮かれてくるというもの。
とくにこんなよく整備された橋や、美しい森の景色を見るとなおさら。
事前に得ていた地図上からの情報・・・険しい峡谷の中腹を這うようにすすむかもしれないという心配も、はるかかなたに行ってしまいます。
また最近の豪雨で多少崩れている箇所がある、との情報にも「快適な散歩道だけじゃ退屈だから、むしろ大歓迎さ」
などと峠を前に大変な慢心ぶりを発揮している、ワタクシなのでありました。
道は徐々に狭くなり、傾斜も急になってきますが、そりゃあ峠道ですから当たり前な話。
それでも狭いなり、急坂なりに快適な道が続きます。
落ち葉の美しい坂道は、ワタクシにとってはまるで高速道路のよう。
傾斜が強まるにつれて、かえってペースが上がっているような錯覚すら覚えてくるほどです。
楓、朴の木、ナナカマド・・・。
それぞれの木の下にはそれぞれの落葉が道を彩り、視界のきかない樹林帯ながら、森は精一杯旅人をもてなしてくれます。
0755時。
徳本峠到着。
画像右手に写っている建物が徳本峠の小屋です。
旧きよき時代の山小屋の雰囲気を残す素敵な小屋、と愛でる人がいる一方、いまどきこんな小屋で料金とって営業するなんて気が知れない。防災上、衛生上、大丈夫なわけないだろう、などと憤慨する人もおり、賛否両論耳に入ってきます。
・・・え?ワタクシですか?
そうですね、酔っ払って、ここに寝ていて地震に遭って、梁に頭ぶつけてサヨウナラ、なんてのも、この世知辛い現代においては、なかなか呑気で好い死に方ではないかな、なんてだいぶ不謹慎な感想ですね。
願わくはタタミの上で秋死なん 山観る峠の掘っ立て小屋で
西行法師さま、パクってすいません。
あ、でも小屋の中はタタミじゃないかもな。ただの板敷きの可能性もある。
まあ別にどっちでも大差ないんですけど。
この日は朝早かったからまだ戸が閉まっていて、中が覗けなかったのですよ。
上高地を世に知らしめた英国人宣教師、ウェストンが感嘆したという景色を画像に収め、出発。
あとは下り調子。のぼりであれだけ快適だったのだから、下りなんて推して知るべし。
で、峠からの絶景画像なんですが、間違えて消去してしまいましたとさ。
ちゃんちゃん。
涸沢山行の後、もう1本ヤマをやったり、上高地を取り巻く山々が雪化粧したり、秋のよい写真が撮れたりと、ブログのネタには事欠かなかったのですが、情けないことに体力のほうに事欠く有様でした。
そんなわけで、更新も皆様へのご訪問もままならず、ご無沙汰しておりました。
ちょいちょい覗きにいらしていただいていた皆様、どうもありがとうございました。
さて、出したいネタも溜まっていることではありますので、そうですね、まずは大物から行ってみようと思いますが、今回はひとまず予告編。
いにしえの上高地アクセスルート「徳本峠(とくごうとうげ)」越えの旅。
ちょっと激しかった涸沢山行の翌週、身体と心のクールダウンと癒しを求めて選んだこのルート。
ちょっとした峠道と、ルートの大半を占める清流沿いの穏やかな散歩道・・・、下山後の温泉。
そんなイメージで、山靴ではなく、アウトドア用スニーカー(?)で、足取りも軽く出発したこの山旅。
さあどんな展開になりますでしょうか。
次回より始まります。
乞うご期待。
さあさあ、やってきました最終回。
いつまでダラダラ続けるんだこいつ、と思われた方にとっては、これでもう安心。
やっと目的地の涸沢に着いたの巻、なので、さぞやすんげえ写真が見られるのだろうと期待されている方に対しては・・・・
・・・・申し訳ございません。
なんとかマトモそうな画像はこれくらいなんです。
なんでって、そりゃあ、険しい山道を越えてきてですね、目指す目的地に着いてですね、黄金色の白く泡立つ例のヤツをクイってやってしまうとですね、習性として仰向けにひっくり返って動きたくなくなってしまうわけなのですよ。
というわけで、帰って画像をチェックしてみたら、肝心の涸沢内での画像は、殆どお尻を据え付けた場所での定点撮影のみになってしまっていたことに気づいたわけなのです。
でもこの場所のパラダイス感は感じ取っていただけましたでしょうか。
ここは山小屋「涸沢ヒュッテ」の屋根の上に設けられたテラスです。
突き抜ける青空の下、お店No1の奥穂ちゃんやら虎視眈々とNo1の座を狙っている北穂ちゃんやらニューフェイスの涸沢岳ちゃんやらに囲まれて、大紅葉楽団の生演奏に踊る色とりどりのテントたちを眺めながら呷る美酒。
まさに「グランドキャバレー 涸沢」といった趣を、ご覧のみなさんも感じていただけましたでしょうか?
さて、話は変わって。
20年前では当たり前だったことだけど、今では当たり前でなくなってしまったこと。
何だと思いますか?
それは「携帯電話を使わない待ち合わせ」
今回涸沢では、2日前からテントかついで入山している相方と待ち合わせて、一緒に帰ろうということになっていたのですが、ここ涸沢は全くの圏外。
しかもこちらは電車を使って行く訳ではなく、ピンポイントの時間指定も難しい状態です。
で、体中が青白くなるほどに全身の血液を脳に総動員して考えました結果、以下のようなコマンドを相方に与えておくことにしたわけです。
「1100時ヨリ毎正時ゴトニ「涸沢ひゅって」入口ニテ待機セヨ、1300時過ギテモ合流能ハヌ場合ハ、先ニ下山スベシ」
というわけで、パノラマコースのトラバース区間も後半にさしかかり、なんとか1100時に間に合いそうだという見極めをつけたあたりからは、結構走っていましたよ。
上の写真は、無事合流することができ、下山を始めた相方。
今回は初めて一人でテン泊装備を担いでの山行。よくがんばった。たいへんよくできました。
ちなみに下山開始時刻は1245時。
昼寝したり、突然山岳雑誌の取材をうけたりしているうちにずいぶん遅くなってしまいました。
雑誌は来年の夏に発売予定だそうで、秋の写真を載せるため、前年から取材をしているというわけなのですね。
それにしてもこの黄金色の木々のトンネルをくぐるというのは、とても幸せな経験でした。
黄金のトンネルを抜けると、北穂ちゃんがお見送りに出てきてくれていました。
又来るよ~。
それにしても実に後ろ髪を引かれる景色ではありました。
下山途中、切ない一瞬を感じる地点というのがあります。
例えば白馬八方尾根では、眼下に見える雲海がだんだん近づいてきて、やがて雲の層を突き抜けて再び下界の人となったことに気付く瞬間。剣岳では、剱御前小舎より雷鳥沢へ下りの一歩を踏み出す前に、最後に剣岳を振り返り見る瞬間。低山にだって、山を離れる切なさを感じる瞬間というのはあるものです。
涸沢、穂高だったら、やっぱりこのあたりかな。
途中でグロッキー気味になった相方にムチ打ちながら、日も暮れきった上高地に到着。
1800時。
出発時と変わらないもの・・・おでこのヘッドランプ。
出発時から減ったもの・・・ザックの重量(水とか食料とかの分)
出発時にはなかったもの・・・疲労感、足の痛み、相方、そしてかつてない多幸感。
ながながとお付き合いありがとうございました。